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Pai de maçãのプロジェクト
マップを閲覧 編集 Pai de maçã=りんごの父
祖父が開発したふじりんごとブラジルにJICAの技術者として派遣されたプロジェクトについてまとめる
ふじりんご
青森県藤崎町・・・開発された場所
山本富士子・・・第1回ミス日本グランプリ受賞者
https://www.google.com/search?q=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%AD%90&oq=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%AD%90&aqs=chrome..69i57j0l2j0i395l5.3422j1j7&sourceid=chrome&ie=UTF-8
富士山
から名付けられたりんご
ブラジルでのプロジェクト
農林水産省、果樹研究所の果樹試育種部長を経て
1996年 JICAの技術者としてブラジルに派遣される
1998年 現地で肺炎に罹り、9月19日逝去
プロジェクト内容
南ブラジル小規模園芸研究協力計画
派遣目的:
ブラジルの急激な都市化と食生活の変化により、温帯果実の消費量が著しい。祖父の派遣先であるサンジョアキンを含むサンタ・カタリーナ地方をはじめとする南部地域は唯一の温帯果樹栽培地帯。多くの農業者が従事している。しかし、ブラジル南部の温帯果樹栽培の歴史は浅いため、技術も未熟であることから国内の消費者のニーズに応えられるような品質と価格の果実を生産できるまでには至っていないのが現状であった。
ブラジル政府は持久体制の確立に向けた生産増強、品質向上及び国際競争力の強化、温帯果樹の持続的かつ適性技術の開発を目的とした技術協力を日本に持ちかけた。
歴史的背景:
1888年にブラジルの奴隷制度が廃止→ブラジルは労働者不足に
日露戦争に勝利したにもかかわらず賠償金が入ってこない日本→国が国民の面倒を見切れなくなる
winwinの関係となり、自分の農地を広げたい、もっと大きいプロジェクトがしたいという農家が集められ、1908年からブラジルに移住を開始
移民になれば自分の農地を持つことができる、大量に儲けて日本に帰国することができると唆される人も
蓋を開けてみると、ブラジルの農園の人の労働者となり、荒れ果てた地を1から耕す。挫折や夜逃げをした人も。
夜逃げをした先で最後に辿り着いたのがサンジョアキン
気候を鑑みてリンゴ農家が増える→最初は試行錯誤していたがそれを助けたのが祖父のプロジェクトチーム
祖父の仕事:
祖父はブラジル サンタ・カタリーナ州 サンジョアキンにりんご台木選定の専門家として派遣された。
台木とは…
“リンゴの各品種は、体細胞が突然変異して生じた枝変わりや、交配の結果生じた多数の実生から目的に近いただ一個の個体を選択して生じたものですから、種子で増やすことはできません。また、栽培されているリンゴは挿し木や取り木をしても、発根しませんので、いままでは接ぎ木だけで増やしてきた植物”
祖父=接ぎ木を選定する専門家 ブラジルに派遣された最後の専門家
http://malus.my.coocan.jp/mitearuku/daigi/daigi.htm
品種及び台木の評価
樹勢衰弱が深刻な問題となっている。大規模な改植を余儀なくされている現状で新たな技術の導入が進められているが、南ブラジルに適した台木の評価と選抜が重要。
様々な重要病害はりんごの安定生産を脅かすものであり、主要病害に抵抗性を有する台木や品種の選抜は重要な課題。当時、サンジョアキン試験場では個別派遣専門家(=祖父)の指導によって黒星病抵抗性品種の作出が試みられている。
りんご黒星病.jpg
https://agripick.com/2256#content_94946_0_1
祖父が派遣されたときの現地が抱えていたりんご栽培の問題点
ブラジルの気候・土壌及び社会条件に適した品種や台木の選定の他、仕立方と栽植様式、土壌肥料、ウイルス無毒化、病害虫防除など多くの技術的問題が山積み、1日も早い解決が求められていた。
ブラジルでのりんご栽培の歴史的背景及び現状
当時気候が高温すぎて適応することができず、家庭果樹の域を出ることがなかった。そのため1960年代のブラジルのりんごは国内消費の99%以上がアルゼンチン、チリ、アメリカ、ハンガリーなどから輸入されていた。
1960年代後半、ブラジル政府はりんご国産化を国家的事業として位置づけ、日本政府にりんご栽培に関わる技術協力を要請。その結果、1971年4月に初代の長期専門家である後沢憲志がJICA(当時のOTCA)から派遣。後沢憲志は適地の選定からはじめ、標高1400mのサンジョアキン 市付近を適地として選定。
その結果多くの日系人がサンジョアキンに入植し、次々と営農団地を形成。約600haが植え付けられた。
なぜ標高1400mなのか
https://medium.com/furuhashilab/%E3%82%8A%E3%82%93%E3%81%94%E3%81%AB%E9%81%A9%E3%81%97%E3%81%9F%E6%B0%97%E5%80%99%E3%82%84%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%82%92%E8%AA%BF%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9F-12-18-%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC-8009633a02ed?source=friends_link&sk=443faa01b6d2869b7b3eaf4228610e05
終わりに
台木や品種の選定、病害虫の防除を1998年9月まで行い、現地で肺炎を患う。
生存したまま帰国は叶わなかった。
しかし、現地ではPai de maçã(=りんごの父)と親しまれ胸像がたっている。
IMG_3551 2.jpg
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Pai de maçãのプロジェクト
マップを閲覧 編集
Pai de maçã=りんごの父
祖父が開発したふじりんごとブラジルにJICAの技術者として派遣されたプロジェクトについてまとめる
ふじりんご
青森県藤崎町・・・開発された場所
山本富士子・・・第1回ミス日本グランプリ受賞者
https://www.google.com/search?q=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%AD%90&oq=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%AD%90&aqs=chrome..69i57j0l2j0i395l5.3422j1j7&sourceid=chrome&ie=UTF-8
富士山
から名付けられたりんご
ブラジルでのプロジェクト
農林水産省、果樹研究所の果樹試育種部長を経て
1996年 JICAの技術者としてブラジルに派遣される
1998年 現地で肺炎に罹り、9月19日逝去
プロジェクト内容
南ブラジル小規模園芸研究協力計画
派遣目的:
ブラジルの急激な都市化と食生活の変化により、温帯果実の消費量が著しい。祖父の派遣先であるサンジョアキンを含むサンタ・カタリーナ地方をはじめとする南部地域は唯一の温帯果樹栽培地帯。多くの農業者が従事している。しかし、ブラジル南部の温帯果樹栽培の歴史は浅いため、技術も未熟であることから国内の消費者のニーズに応えられるような品質と価格の果実を生産できるまでには至っていないのが現状であった。
ブラジル政府は持久体制の確立に向けた生産増強、品質向上及び国際競争力の強化、温帯果樹の持続的かつ適性技術の開発を目的とした技術協力を日本に持ちかけた。
歴史的背景:
1888年にブラジルの奴隷制度が廃止→ブラジルは労働者不足に
日露戦争に勝利したにもかかわらず賠償金が入ってこない日本→国が国民の面倒を見切れなくなる
winwinの関係となり、自分の農地を広げたい、もっと大きいプロジェクトがしたいという農家が集められ、1908年からブラジルに移住を開始
移民になれば自分の農地を持つことができる、大量に儲けて日本に帰国することができると唆される人も
蓋を開けてみると、ブラジルの農園の人の労働者となり、荒れ果てた地を1から耕す。挫折や夜逃げをした人も。
夜逃げをした先で最後に辿り着いたのがサンジョアキン
気候を鑑みてリンゴ農家が増える→最初は試行錯誤していたがそれを助けたのが祖父のプロジェクトチーム
祖父の仕事:
祖父はブラジル サンタ・カタリーナ州 サンジョアキンにりんご台木選定の専門家として派遣された。
台木とは…
“リンゴの各品種は、体細胞が突然変異して生じた枝変わりや、交配の結果生じた多数の実生から目的に近いただ一個の個体を選択して生じたものですから、種子で増やすことはできません。また、栽培されているリンゴは挿し木や取り木をしても、発根しませんので、いままでは接ぎ木だけで増やしてきた植物”
祖父=接ぎ木を選定する専門家 ブラジルに派遣された最後の専門家
http://malus.my.coocan.jp/mitearuku/daigi/daigi.htm
品種及び台木の評価
樹勢衰弱が深刻な問題となっている。大規模な改植を余儀なくされている現状で新たな技術の導入が進められているが、南ブラジルに適した台木の評価と選抜が重要。
様々な重要病害はりんごの安定生産を脅かすものであり、主要病害に抵抗性を有する台木や品種の選抜は重要な課題。当時、サンジョアキン試験場では個別派遣専門家(=祖父)の指導によって黒星病抵抗性品種の作出が試みられている。
りんご黒星病.jpg
https://agripick.com/2256#content_94946_0_1
祖父が派遣されたときの現地が抱えていたりんご栽培の問題点
ブラジルの気候・土壌及び社会条件に適した品種や台木の選定の他、仕立方と栽植様式、土壌肥料、ウイルス無毒化、病害虫防除など多くの技術的問題が山積み、1日も早い解決が求められていた。
ブラジルでのりんご栽培の歴史的背景及び現状
当時気候が高温すぎて適応することができず、家庭果樹の域を出ることがなかった。そのため1960年代のブラジルのりんごは国内消費の99%以上がアルゼンチン、チリ、アメリカ、ハンガリーなどから輸入されていた。
1960年代後半、ブラジル政府はりんご国産化を国家的事業として位置づけ、日本政府にりんご栽培に関わる技術協力を要請。その結果、1971年4月に初代の長期専門家である後沢憲志がJICA(当時のOTCA)から派遣。後沢憲志は適地の選定からはじめ、標高1400mのサンジョアキン 市付近を適地として選定。
その結果多くの日系人がサンジョアキンに入植し、次々と営農団地を形成。約600haが植え付けられた。
なぜ標高1400mなのか
https://medium.com/furuhashilab/%E3%82%8A%E3%82%93%E3%81%94%E3%81%AB%E9%81%A9%E3%81%97%E3%81%9F%E6%B0%97%E5%80%99%E3%82%84%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%82%92%E8%AA%BF%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9F-12-18-%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC-8009633a02ed?source=friends_link&sk=443faa01b6d2869b7b3eaf4228610e05
終わりに
台木や品種の選定、病害虫の防除を1998年9月まで行い、現地で肺炎を患う。
生存したまま帰国は叶わなかった。
しかし、現地ではPai de maçã(=りんごの父)と親しまれ胸像がたっている。
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